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Special interview with Antoine d' Agata

Special interview with Antoine d' Agata

Special interview with Antoine d' Agata    Antoine d' Agata/Magnum Photos/AFLO    Plofile:  1961年、フランス生まれ。世界屈指の写真家集団マグナムに所属。世界各地を放浪しながら犯罪者やドラッグ中毒者、娼婦など社会の闇がりで生きる人たちの姿を写す。    Photo Archive: AFLO  Interview cordinatiton: AFLO    Part 1  -あなたは人間の闇の側面に焦点を当てながら、地下社会を20年以上に渡り撮影し続けてきました。なぜこのテーマに取り組み続けるのでしょうか。    25年の苛烈な放浪の後も、私の写真撮影における試みは依然として、17歳の時に私を受け入れて育ててくれた、社会から疎外された人々との生活の中で獲得した生存本能を糧にしています。  それはまさに苦難、そして危険と隣り合わせの生活が続く40年間でした。  そして私はそれに病みつきになったのです。  写真は、私が写真家になる前に逃避していた感情的、社会的自閉症に替わる唯一の手段となりました。  私は都市の中腹で、飢えと欲望に苛まれる捻れた身体を目撃してきました。  通常、痛みを和らげたり修復するには過剰なもの以外に手段はありません。  性的障害と麻薬は、誰もが人生において直面し、乗り越えなければならない空虚を埋める助けになります。  私は、今生きているということを証明する欲望にかつてなく強く突き動かされ、退屈と疲労の圧倒的な苦しみから新しい日々を救い出そうとしているのです。  それがたとえ絶望的でも、私は美しい振る舞いや態度を生み出す可能性を考え出そうとし続けるでしょう。  存在の暴力性と対峙することを通して、私は命懸けでそれを取り戻そうとします。  私は自分の感じる力と行動の自由を守るために、自ら貧しく生きることを選ぶ。  そして無力や不能であるよりも、悪であることを選んだ人の側で生きています。  その過程はもう40年にも渡り続いており、私は絶望と脆さの戦略、そして頭で理解することよりも感じることの必要性を、日々自分の作品と私という存在に適用しているのです。  私は自らの運命をつかむために本能的で政治的な選択を行っているため、そこから生まれる写真は感情的かつ社会的な病理学の性質を帯びています。  私はそれを原理の問題、あるいは身体的かつ道徳的な位置づけの問題と捉えています。  私のアクション自体はちっぽけなものですが、そこには一貫性と適切さがあります。  私の芸術的実践と私という存在は、具体的な結果から判断されるようなものでは決してありません。  しかし、それを破壊できるのか疑わしく思っているからこそ、私が全身全霊をかけて挑み、戦い、そして汚染しようとしているシステムの論理的、道徳的基盤をゆっくりと、じわじわと気がつかぬ間に蝕んでいくのです。  私の全ての存在は、レジスタンスの厳格な倫理によって規定されています。      -過去に制作してきたプロジェクトを通して、どのような感情を抱いてきましたか?それらの作品を通して何を表現したいのでしょうか。    おそらく長い年月をかけて、私は次のようなことを身につけてきたと言えるでしょう。  人と状況を感じ取る能力、限界を超えることを知る強さ、自らの痛みの囚人として過剰な流儀のもとに生きる人々に対するヒエラルキーのない共感、教義に反するような秘密の快楽に関する深い知識、合理的な限界を超えて身体を突き動かす能力、麻薬中毒から生じるある種の明晰さ、支配的な経済システムの暴力と並行して発生する暴力のシステム下でサバイブするために必要な経験、あらゆる種類の非行的暴力へのある種の心酔と畏敬の念、より抽象的な領域を探究することへの抑えがたい欲求、無限の自由を行使する力、フィクションを書くかのように自らの人生のシナリオを描き、常に不可能な状況を生きようとする虚勢。  私はこの社会の誤った道徳的価値観に立ち向かい、存在の切迫に屈し、世界における私という存在に新たな形を与えようと試み、暗闇の中を歩き、己を破壊する危険を冒します。  私の人生が意味を持つかどうかは、生きるために自らに課した状況の熾烈さ次第なのです。私は中毒、痛み、そして感覚と過剰さの暗い領域の中で、自らの逸脱を記録しています。  新たな形態で実行される経済支配は、私たちが自由に人生を描くことを妨げ、あらゆる経験を表象の一部へと追いやり、私たちを自らの人生の見物人にしてしまいます。  われわれの生活に対する虚像とメディアのヘゲモニー、商品の完全な支配、制御技術の容赦ない進歩、そして政治に対する金融エリートたちの支配は、過去に例を見ない世界を作り出しているのです。  憎しみの叫び、快楽の叫び、恐怖の叫びは、傷ついた人間性の最後の一息であり、それが内包しているカオスに溶けていくかのようです。  リスクと無意識の封のもと、新たな感覚を必死に求めながら、私はこの現実の汚れた歯車を調査し、私自身の言葉で制度に対する欲望の苦闘を示そうとしており、自分が選択したルールに従って生きる権利を主張するのです。    -この世界は残酷だと思いますか?それとも愛や喜び、平和といった光の側面も存在すると考えますか?    それはボキャブラリーの問題に過ぎません。  光、それは私の作品にはそれはほとんど存在しません。  私は卑劣さと美を切り離して考えませんし、恍惚と平穏、暴力と激しさ、本能と喜び、そして狂乱と愛もまた同様です。  私の美学は、強烈さと乱暴さを通して、見せかけの混乱に陥った世界の見方を明らかにします。  私は計り知れない痛み、そして運命と瞬間瞬間の儚い情熱に美を見いだすのです。 ...

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Distance between Culture and Competition   スケートボードの“分断“と“共生”。

Distance between Culture and Competition スケートボードの“分断“と“共生”。

FEATURE  /  小川万里 Distance between Culture and Competition スケートボードの“分断“と“共生”。 2021年に開催されたスポーツの祭典にて、堀米悠斗選手や四十住さくら選手たちの活躍によって、社会的認知が向上したスケートボード。しかしながら、「それによってシーンの構造が変わった」と話す人物がいる。〈ディアスポラスケートボーズ(Diaspora Skateboards)〉の小林万里だ。ストリートカルチャーの象徴として、一方では立派なスポーツ競技として、人々の認識に大きな溝が生まれたのは事実だ。果たしてスケートボードは誰のものなのか? シーンの“分断“と“共生”について、彼のアイデアに触れてみた。    Profile 小林万里  長野県松本市出身。早稲田大学社会科学部卒業後にPRエージェンシーに入社。 2018年に独立し、フリーランスのPRプランナー、ビデオディレクターとして活動をスタートする。 2010年、仲間と共に設立した〈Diaspora skateboards〉では、ディレクションを担当。アパレルやグラフィックデザインの制作、さらにはPR、セールスなどもおこなう。2022年11月には、東京・駒沢に旗艦店である「PURRBS」をオープンし、カルチャーの発信地としての機能を持たせている。https://diasporaskateboards.com/  Instagram:@banri_diaspora(https://www.instagram.com/banri_diaspora/)    スケートボードに乗って滑ることで、街にいても自由を感じる。    ー小林さんがスケートボードをはじめたのはいつ頃ですか?    小林:『BOON』っていう雑誌を中学生の頃に読んでいて、自分自身もスケーターのファッションを真似していたんです。ぼくは当時スケーターではなかったので、そういうのを“ポーザー”と揶揄することを知り、自分もはじめようと思ったのがきっかけですね。    ー出身は長野ですよね。周りにスケーターはいたんですか?    小林:スノーボードをやる人が多くて、その人たちがオフシーズンにスケートをやっていました。駅前には先輩のスケーターたちもいたし、同じ中学で〈Diaspora skateboards〉のhakaseもぼくより先にやっていました。    ーその当時は街で滑っていたんですか?    小林:地元にはパークがなかったので、ずっと街でしたね。昼間に公園で滑って、夕方くらいから街中に行って、なんでもない階段でトリックの練習をしたりとか。    ービデオを撮るようになったのも、スケートの延長で?    小林:高校生になって部活をやらずにスケートに明け暮れていたんですよ。それで時間があったので、自分たちでもビデオを撮ろうということになり、家にあったカメラを持って撮影をはじめたのがきっかけです。編集も自分たちでして。当時のPCって動画の処理がめちゃくちゃ遅かったので、フリーズとの戦いでしたけど。    ーそうした活動が地続きで現在につながるわけですね。    小林:そうですね。    ー中学生の頃にはじめてから20年近くの月日が経っていますが、当時の空気はどんな感じだったんですか?    小林:一部の人のものというか、とくに長野は田舎だったので、「スケボーってなに?」っていう人もいましたし、スノーボードと混同している人もいました。だから認知でいうと、まだまだという感じですね。    ーその頃から小林さんの中に社会的な関わりみたいな意識はあったんですか?    小林:地元のとあるビルの前にスポットがあったんですよ。そこは19時前だと警備員がいたんですけど、それ以降は仕事が終わって帰ってしまうので、夜に滑ったりしていたんです。でも、たまに早い時間に滑っていて、証拠写真を撮られたりしたこともあります。「なんでダメなんですか?」と聞いても、明確な理由はなく「ダメだからダメなんだ」と言われるだけ。ぼくらはそうした意味のない警告に対して反抗していた程度で、社会的な関わりみたいなことは考えていなかったと思います。いま思えば、それも第一歩だと思うんですけど。    スケーターたちは街の中で常にスポットを探していて、高校生の頃から自分もそうした意識が芽生えて、道の白線やマンホール、段差などが遊び場になることに気づいたんです。その前まではただの道としか認識してなかったけど、家の外に出れば遊ぶものがたくさんあった。    最近思ったのは、人って街を無意識に歩いていますけど、車道と歩道があるように、敷かれたレールを歩かされているんですよね。階段も登るためのものですけど、段差があることによって登らされているんだなと思うようになって。ぼくらは自由に道を選んでいるようで、実は限られた使い方しかしていないんです。    一方でスケートは、そうした概念を振り払うように、本来の用途を無視して遊びのツールにしてしまう。そこに自由さがあると思うんです。    ーそうゆう目線で高校生の頃から街を眺めていたんですか?    小林:そうですね。大人になってようやく、それを言語化できるようになってきたという感じです。スケボーに乗って滑ることで、街にいても自由を感じるんですよ。歩行者天国ってあるじゃないですか。あれとちょっと似ているというか。普段は車道として機能しているところを歩くことによって、開放感を感じる感覚に似ていると思います。      シーンをつくってきた人たちへの敬意。  ー〈Diaspora skatebords〉は“I...

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