2022-09-07
Interview

Special interview with Antoine d’ Agata

Antoine d' Agata/Magnum Photos/AFLO

Plofile:
1961年、フランス生まれ。世界屈指の写真家集団マグナムに所属。世界各地を放浪しながら犯罪者やドラッグ中毒者、娼婦など社会の闇がりで生きる人たちの姿を写す。

Photo Archive: AFLO
Interview cordination: AFLO

Part 1
-あなたは人間の闇の側面に焦点を当てながら、地下社会を20年以上に渡り撮影し続けてきました。なぜこのテーマに取り組み続けるのでしょうか。

25年の苛烈な放浪の後も、私の写真撮影における試みは依然として、17歳の時に私を受け入れて育ててくれた、社会から疎外された人々との生活の中で獲得した生存本能を糧にしています。

それはまさに苦難、そして危険と隣り合わせの生活が続く40年間でした。

そして私はそれに病みつきになったのです。

写真は、私が写真家になる前に逃避していた感情的、社会的自閉症に替わる唯一の手段となりました。

私は都市の中腹で、飢えと欲望に苛まれる捻れた身体を目撃してきました。

通常、痛みを和らげたり修復するには過剰なもの以外に手段はありません。

性的障害と麻薬は、誰もが人生において直面し、乗り越えなければならない空虚を埋める助けになります。

私は、今生きているということを証明する欲望にかつてなく強く突き動かされ、退屈と疲労の圧倒的な苦しみから新しい日々を救い出そうとしているのです。

それがたとえ絶望的でも、私は美しい振る舞いや態度を生み出す可能性を考え出そうとし続けるでしょう。

存在の暴力性と対峙することを通して、私は命懸けでそれを取り戻そうとします。

私は自分の感じる力と行動の自由を守るために、自ら貧しく生きることを選ぶ。

そして無力や不能であるよりも、悪であることを選んだ人の側で生きています。

その過程はもう40年にも渡り続いており、私は絶望と脆さの戦略、そして頭で理解することよりも感じることの必要性を、日々自分の作品と私という存在に適用しているのです。

私は自らの運命をつかむために本能的で政治的な選択を行っているため、そこから生まれる写真は感情的かつ社会的な病理学の性質を帯びています。

私はそれを原理の問題、あるいは身体的かつ道徳的な位置づけの問題と捉えています。

私のアクション自体はちっぽけなものですが、そこには一貫性と適切さがあります。

私の芸術的実践と私という存在は、具体的な結果から判断されるようなものでは決してありません。

しかし、それを破壊できるのか疑わしく思っているからこそ、私が全身全霊をかけて挑み、戦い、そして汚染しようとしているシステムの論理的、道徳的基盤をゆっくりと、じわじわと気がつかぬ間に蝕んでいくのです。

私の全ての存在は、レジスタンスの厳格な倫理によって規定されています。

-過去に制作してきたプロジェクトを通して、どのような感情を抱いてきましたか?それらの作品を通して何を表現したいのでしょうか。

おそらく長い年月をかけて、私は次のようなことを身につけてきたと言えるでしょう。

人と状況を感じ取る能力、限界を超えることを知る強さ、自らの痛みの囚人として過剰な流儀のもとに生きる人々に対するヒエラルキーのない共感、教義に反するような秘密の快楽に関する深い知識、合理的な限界を超えて身体を突き動かす能力、麻薬中毒から生じるある種の明晰さ、支配的な経済システムの暴力と並行して発生する暴力のシステム下でサバイブするために必要な経験、あらゆる種類の非行的暴力へのある種の心酔と畏敬の念、より抽象的な領域を探究することへの抑えがたい欲求、無限の自由を行使する力、フィクションを書くかのように自らの人生のシナリオを描き、常に不可能な状況を生きようとする虚勢。

私はこの社会の誤った道徳的価値観に立ち向かい、存在の切迫に屈し、世界における私という存在に新たな形を与えようと試み、暗闇の中を歩き、己を破壊する危険を冒します。

私の人生が意味を持つかどうかは、生きるために自らに課した状況の熾烈さ次第なのです。私は中毒、痛み、そして感覚と過剰さの暗い領域の中で、自らの逸脱を記録しています。

新たな形態で実行される経済支配は、私たちが自由に人生を描くことを妨げ、あらゆる経験を表象の一部へと追いやり、私たちを自らの人生の見物人にしてしまいます。

われわれの生活に対する虚像とメディアのヘゲモニー、商品の完全な支配、制御技術の容赦ない進歩、そして政治に対する金融エリートたちの支配は、過去に例を見ない世界を作り出しているのです。

憎しみの叫び、快楽の叫び、恐怖の叫びは、傷ついた人間性の最後の一息であり、それが内包しているカオスに溶けていくかのようです。

リスクと無意識の封のもと、新たな感覚を必死に求めながら、私はこの現実の汚れた歯車を調査し、私自身の言葉で制度に対する欲望の苦闘を示そうとしており、自分が選択したルールに従って生きる権利を主張するのです。

-この世界は残酷だと思いますか?それとも愛や喜び、平和といった光の側面も存在すると考えますか?

それはボキャブラリーの問題に過ぎません。

光、それは私の作品にはそれはほとんど存在しません。

私は卑劣さと美を切り離して考えませんし、恍惚と平穏、暴力と激しさ、本能と喜び、そして狂乱と愛もまた同様です。

私の美学は、強烈さと乱暴さを通して、見せかけの混乱に陥った世界の見方を明らかにします。

私は計り知れない痛み、そして運命と瞬間瞬間の儚い情熱に美を見いだすのです。

美とは、苦しみながらも返される暴力、尊厳と厳格さ、残酷な事態に反応し、生き残り、抵抗する能力の中にあるのです。

私たちは残酷さを、自らの肉体に囚われた痛みへの恐怖、精神の穴蔵と循環する思考、恐ろしい経済を育む感情の迷宮、倫理的支配の対象となる傷を負った存在の粗野な立ち振る舞い、そして絶望の陳腐さなどから生み出しています。

私は獣姦こそ、われわれに残された最後の自由の区画、現実の潜在的仮想性、感覚の麻酔、物と存在を同様の消費物として定義する社会、社会ののけ者にされた人々の大部分に対する残酷な扱いと、彼らを根絶させようとする動き、そして非生産性とされるコミュニティを社会のゴミと見なすことに対する究極の防壁だとみなしているのです。

世界を消費し、利益の論理に関して余分となった個人を組織的に根絶させる、現代社会に横行する底知れぬ残虐性の目に見えないメカニズム。

現代の経済的大虐殺に関する合意的タブー、自由民主主義の中核をなす生産と消費のシステムに関する沈黙。

社会的、経済的疎外感の残酷な形態 ─ 個人は自分の存在が無価値であるということを受け入れてしまっている。

もはや彼らが世界の秩序を決定するのではなく、彼らが世界の中に溶け込んでいくのです。それは生命そのものの廃止を通した、新しい形態の奴隷制と生存の絶え間ない再発明です。この世界の幾何学的な狂気の近親相姦的かつ致命的な振り付けは、人が人を押しつぶすという決意もあらわにします。

もはや思考も、魂も、論理も、ルールも、睡眠も、時計も、夢も、信仰も、感情も存在しません。

始まりも終わりもなく、原因と結果の因果もない。

空虚さだけがあり、心が把握できない外部に向かって自分を晒すだけです。

自身の朧げな未来を共通の視点へと変える混沌の発生源となっているバイラルなイメージの世界には、愛も、喜びも、平和も存在しません。

-あなたはかつてインタビューで、「写真家がどのように世界を見ているのかが重要なのではない。世界との親密な関係性こそが重要なのだ」と答えていました。 あなたは被写体と親密になることで、一体何を表現し、達成することを望んでいるのでしょうか。 彼らと同じ経験を共有したときにどのように感じますか?また、なぜこのような表現手法を選んだのでしょうか。

形態は、たとえ物事の本質や知覚可能な外観に隠された無秩序を明らかにするものであっても、本質的なものではありません。

美は、われわれに課せられた人生の境遇を超える力にこそあるのです。

真の芸術は存在そのものの範疇でしか解決できないのですから、私はその出現を条件づけた文脈や作家の性格、モチベーション、生産様式、この世界における立場、視点、現在の経済システムとの妥協の度合い、属する社会階級、無垢さ、そして美学が倫理に道を譲る程度などのことを考慮せずにイメージを見ることはできません。

写真は、目の前の状況を即座に再現することで、体験とその転写の同時性を可能にしています。

写真家はそこに直接入り込むことによって現実を物語るため、世界における自己の存在、そして物事の社会的、物理的秩序における定められた立場を物語ることができます。

写真は単なる表現方法として限定されるようなものではありません。

写真家はただ世界を観察し、分析し、告発し、昇華し、意見を述べるだけならば、自身を受動的で無抵抗な存在だと非難することになるでしょう。

写真とはジェスチャーなのです。光や構図、表現、物語の手法や現実の表皮について論じるとき、私たちは写真の本質がアクションであるということを忘れてしまいます。

イメージとしての、あるいは結果としての写真は、そのイメージを生み出す行為を生み出す過程よりは意味がないのです。

写真は、それを生み出した経験から切り出されたものであり、熟考と凝視を必要とします。しかしこのバーチャル・ワールドの時代においては、思索や魅力とともに諦めの気持ちが押し寄せます。

同様の悪循環は、写真家と鑑賞者を無力という安らぎの中に閉じ込めてしまいます。

その状況に加担する芸術は、娯楽とマーケティング、社会学的なルールや論理、そして国家が開発した管理装置に追従するため、現実を貧しく、ある点においては魅惑的だが無駄な映像へと還元してしまうのです。

単なる心理的、美学的ゲームに成り下がったイメージは無害であり、後につながるような影響も持っていません。

この閉塞的な表象の文脈上では、物理的に現実と関与したり、写真的体験の全体性を希求することなくしては、現実を理解することなど到底できません。

言葉を超えて自らの言葉に忠実に生きること、アイディアの安らぎから逃れること、行動と自由意思の基準に疑問をもつこと、世界の中でしっかりとした物理的な場所を想定すること、自らの恐怖と欲望に向かい合うこと、厳しい現実に立ち向うこと、かつてなく硬直し、偏った1枚板である既存の表象システムを破壊すること。

写真家は自身の振る舞いや個人史を通して世界を再発見することを運命付けられています。自分の作品世界の登場人物として、私は現実とその表象の間に必要な相互関係を探っているのです。

私は自分が記録する状況を最大限に生き、そして同じ状況に対する自らの視点を記録しています。

出来事の扇動者である俳優として、私は被写体たちと身体的に携わり、そして自身の存在によって出来事の道筋を捻じ曲げ、その振る舞いのひとつひとつ全てに自ら責任を負います。私は悲惨な状況を観察しているのではなく、恐怖と疑念の深淵に常に接近しようとしているのです。

私は、不幸が呼び起こす恐怖の叫びを自分の肉体の中に聞きます。

自分の存在をゲームにしているのです。

私は理性が課す限界を超える。

そして私が自らの親密さと呼ぶ、内と外の間に開かれたぼんやりとした空間で、 形象は破裂し、沈み、衝突し、広がる肉塊に溶けていきます。

吸入、注入、誘拐、侵入、身体による世界の吸収、身体による世界への吸着。

なぜなら私は世界の中で分解され、世界は私の中で分解され、そして肉体はゆっくりと劣化していくからです。

Antoine d’ Agata/Magnum Photos/AFLO

Part 2
– あなたにとってのヒーローや尊敬する人はいますか?アーティストなど、影響を受けた人がいれば教えてください。

ごく普通の運命を再発見するために、私は不用意なリスクを犯し、未知の世界に身を投じ、見知らぬ都市の暗い縁に溶け込まなければなりませんでした。

これまで行ってきた探究の論理を考えてみると、この溶け込みの過程は今の自分を形作る上で不可欠なものでした。

最初の魅了された段階の後、私は結局のところ、私のアプローチを受け入れてくれた人々から学び、ともに生き、そして彼らを愛するようになりました。

私は「communauté de ceux qui n’ont pas de communauté(ジョルジュ・バタイユの言葉で『共同体に属さないものたちの共同体』)」である暗い人物たちを、輝かしく、寛大で、勇敢で、威厳のあるものとして見たのです。

彼らならず者たちは、悲劇的な人物でした。

撮影する女性たちは聖人、奴隷、英雄、神話など、何とでも呼べるような存在です。

しかし彼らは、人間の限界を押し広げ、人間らしさの限りを尽くして生きる、私が思いつく限りの唯一の存在なのです。

彼らは臆病者と皮肉屋に溢れた世界における、最後の人間、いや、最初の人間なのかもしれません。

そのような暗いキャラクターたちを私は尊敬しています。

闇は、幻想の世界における生命の輝きから生じます。

そしてそのような幻想の世界で、多くのアーティストや物書きたちは何か耐え難く、あるいは恐ろしい視点を世界に課すために、死に物狂いでもがき、自らの肉体の中で苦しんできたのです。

私はその姿から洞察力と狂気、怒りと共感、そして調和と恐怖の不可能にも思われるバランスから多くのことを学びました。

この複雑な繊細さは、知性と献身の証です。

ギー・ドゥボール、アントナン・アルトー、ジョルジュ・バタイユ、ルイ=フェルディナン・セリーヌ、そしてフランシス・ベーコンが私の主な精神的、政治的レファレンスです。

しかし私は文化全般から、中でも写真から極力身を遠ざけるようにしています。

文化的消費とインフレは、私を世界の現実から引き離す論理であり、私はそれらから自身の身を守る必要があるからです。

文化とは、情熱の枯渇と明晰さの抹消に基づいています。

文化は意味のないノイズや製品、無意味かつ空虚で、そして人工的な記憶のネットワークにより蒸留された声を伴う無数のサインとイメージで、恐怖と欲望を煽ります。

私は消費者や鑑賞者になることに抵抗しているのです。

私は物質的な所有物をいっさい持ちません。

情報や無駄な知識、終わりのないコミュニケーションの押し寄せる流れに抗うのです。

数少ない先人たちの残した足跡をたどりながら、私は前例のない出来事を体験し、「à hauteur de mort(バタイユの言葉で『虫の息の状態』)」になりながら生きようとしているのです。

-誰もが容易に写真を撮ることができるこの時代に、写真家はどのように被写体を選択し、またどのように撮影するべきなのでしょうか。

イメージの氾濫は、怠惰な群衆の認識力を規制し、無力化することを目的としています。

そのシステムは現実を過剰に曝け出すことによって、本来の現実そのものを無力化するのです。

画一的なイメージが溢れかえる様や、文化産業によるその増殖、グルーバルな経済論理に支配されたネットワーク上の写真的、視覚言語の不快な運命は、私の中に苦悩を生み出します。

私は彼らが持つ特権と責任という観点から、写真家の役目について考えているのです。

公共圏や情報、芸術、政治、そして哲学の分野に参画する者たちは、日々発生している目に見えない対立の中で必ず声を上げなければなりません。

そして残忍な権力か、あるいは人類の命運のために抽象的に奮闘する、生存を賭けた獰猛な力かのどちらかを選ばなければなりません。

現実を把握する新たな分析グリッドの発明は、来るべき混沌の予測、個々の解決策の発見、そして日々システムが特定の人々に対して「使い捨ての人間」と烙印を押す、その軽蔑へに新たな対策を考案することを可能にするでしょう。

私たちを支配する経済システムでは、利益と市場操作の選択を行うものが権力を握っています。

このような状況において、暴力は常に、経済エリートたちのプロパガンダによる言葉やイメージの狡猾な独占を脅かすような、剥き出しの事実を明らかにします。

写真家にとって、どちらの側につくかを選択することは避けられません。

自らの考え、選択、行動 ─ そしてそれがどれだけ馬鹿げていようが、それらを極限までやり遂げることは個々人の責任です。

私は具体的なアクションの現実と、自らのコンセプトに閉じこもった芸術のシミュラクラを区別しています。

国際的なコミュニケーション・システム独自のカテゴリーに分類されないような、日常の中で直ちに適応可能な個人的な道筋、あるいは自身のプロジェクトのアウトラインを考案しようと試みているのです。

私が醜悪な不可視の魂のヴィジョンを他者に負わせるのは、それは私が知る唯一の社会的、感情的空間であり、そこで巻き起こる問題こそが本質的だからです。

支配の力に対して私の貢献がどれだけ有効かは分かりませんが、集団行動の新たな形態を肯定する以前に、私の実践は、私自身の存在に関して行ってきた選択に固執する強い意志の現れなのです。

しかしわれわれ全員に関係するのは、今まさにその最中にある「分解」という過渡期です。私の経済的、政治的変化に対する認識は純粋に本能的なもので、スラム街で過ごした時期の神経的な不安に由来します。

私は、私たちが今まさにひとつの政治的サイクルの終焉、そして衰退する覇権を目の当たりにしているような気がするのです。

ある体制が終わりを告げようとしている一方で、はるかに暴力的な新しい体制が生まれつつある。

富の一極集中はますます進み、もはや耐え難いものとなっています。

倒産、貧困、排除、失業は必然的に増加するでしょう。

システムの無力さ、いかなる価値観も守ることができず、信条も説明できず、何かを信じているとしても、それぞれが独立した個人としての尊厳と潜在的自立性を認めることができないがゆえに、誰もが責任を持って対応する余地が残されます。

もしかすると、個人の行動が全ての人の未来に影響を与える力が徐々に取り戻されるかもしれない…おそらくより暴力的なOSが出現するまでは。

私は、世界がより平等主義的で分配的なシステムへと向かって進んでいるとは全く思っていません。

むしろ国際的な内戦の時代に向かっていると思っていますし、反乱が発生するだろうと信じています。

システムの末梢の犠牲者たちは、自己破壊的ではありますが断固とした態度で行動します。排除された群衆は理性的な生活を放棄し、欲望の一時的な充足のために絶望的な試みに逃避するでしょう。

私はもはや、継続的かつ必然的な進歩という考えを信じていません。

しかし、私の役割は理解することでも、またそのために必要な道具を与えることでもありません。

私は現代に黙示録を実行することを選択するのです。

低強度の戦略は、体制を破壊することを目的とせず、その溶解を助長することです。

私の振る舞いは、今の世界に対する批判と闘争の前例のない形となるかもしれません。

エリートたちによる経済支配を弱めるような根本的変化の可能性をわれわれに悲観化させるため、体制はあらゆる策を講じますが、私たちは自立した個人として思考する力を取り戻し、新たな抗議とコミュニケーションの手段を創造しなければなりません。

来るべき反乱のための新たな場を定義することが、その第一歩です。

-新型コロナウイルスの発生前後で、何か変化したことはありますか?あなたの次のステップやこれからのプロジェクトについて、また撮影したいテーマや主題を教えてください。

仮想ネットワーク、図像の流れ、職の分割、政治的操作は、徐々に現実を溶かしていきます。新型コロナウイルスのパンデミックに伴い、世界はついに私が感じていたような、実態を欠いた、超現実的で奥行きのない空間へと変化したようです。

この大量虐殺的な状況の中で、人間は行動か空虚かの二者択一を迫られ、そしてイメージはかつてないほどに超伝達的な宇宙の猥雑な透明性に奉仕するプロパガンダとなっています。存在は常にいっそう抽象的かつ非物質的になり、一般化された快楽(jouissance)の悪循環は欲望を消滅させる…。

生に価値を与える唯一の力である情熱を相殺するスペクタクルは、おそらくもはや取り返しのつかないところまで広がってしまっています。

私はこのスペクタクルに対して、自身の武器で対抗できる策を展開したいと思い続けています。

私はそうあるべきだと信じる自分になるため、消費という命令から逃れるため、不満を再発見するため、歴史の中に主体としての存在を刻み直すため、デジタル信号としてのみ存在することを拒絶するため、そして自身の運命を切り開くリスクを負うために戦い続けます。

肉体的な体力が続く限り、このプロセスを記録し続けるつもりです。

Antoine d’ Agata/Magnum Photos/AFLO

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